江戸時代の洋学--オランダ語学を支えた人ぴと-- (西村圭子)


 江戸時代の洋学は,鎖国体制下の日本にオランダ商館(長崎出島)を通して移植された西洋文化

を指している。語学を中心とした諸科学を,当時「蘭学」と呼んだ。幕末には,西洋諸国との交渉

から,語学の必要性が高まり,近代国家への思想的基盤ともなった。八代将軍徳川吉宗の関心から,

青木昆陽に蘭語学習を命じ,昆陽は「和蘭話訳」(1743年)「和蘭文字略考」(1746頃)等の入

門書を著している。京都の山脇東洋は解剖に立会い,所見を「臓志」(1759)に誌し,長崎の本

木良意は独人レムメリンの人体解剖模型図を翻訳,後に「和蘭全躯内外分合図」(1772)として

刊行される。この風潮の中で杉田玄白や前野良沢は,桂川甫周らとクルムスの解剖図譜「解体新書」

(1774)を翻訳出版した。このとき、良沢は「蘭訳筌」(1774)を版行し,のち増補して「和蘭訳

筌」(1785)を著した。玄白,良沢の学統をついだ大槻玄沢は,長崎で吉雄耕牛や本木良永に蘭語を

学び「蘭学階梯」(1788)等を出版,江戸蘭学の指導者となっている。門下の宇田川玄随は「西説内

科撰要」(1793)を,その養子玄真は「医範提綱」(1805)を,その子榕菴は,リンネ分類学の「菩

多尼阿経」(1822)や,化学の「舎密開宗」(1837)を刊行した。京都の稲村三伯は,ハルマ蘭仏辞

典の蘭和原訳から「波留麻和解」(1796)を編集,門下の藤林普山は「和蘭語法解」(1815)を著し

ている。長崎の志筑忠雄は「和蘭詞品考」やニュートン学説の註釈「暦象新書」(1802),ケンペル

日本誌から「鎖国論」を訳出し,蘭学研究の水準を画した。商館長ドゥフは,自ら蘭和辞典編集に着手

し,引き継いだ通詞たちにより「道訳法蘭馬」(1833)が出版され名声を博した。本木正栄らは1808年

英鑑フェートン号の長崎不法侵入を契機に,商館のブロンホフの指導で英語学「諳厄利亜興学小筌」

(1811)を上梓した。またドゥフは,露使レザノフの部下が択捉島に侵入して残した仏語文書を翻訳,

正栄らはドゥフ指導の下に仏蘭辞典から仏和の「払郎察辞典」(1814)を編纂している。志筑の高弟

馬場佐十郎は,1808年,幕府天文方高橋昌保の下で「新訂万国全図」(1810)の翻訳に携わり,蛮書

和解御用開設後,ショメールの辞典翻訳に参加した。たまたま国後島に侵入し捕らえられ松前に抑留中

の露艦長ゴローニンとの交渉にあたり,「魯語文法規範」(1813)を編集した。また「和蘭文範摘要」

(1814)等を著し幕府内に新学風を築いた。玄白は,晩年「形影夜話」(1810)に,「品こそかわれ

治療の理は一ッなるを知る」と若き日の伝統医学批判を恥じて,文化受容のあり方を顧みている。この

ような経緯の中で,文化・文政期を画期として「蘭学」の体系化・細分化が進み,洋学は近代文化形成

への道標となったのである。 (図書館長・史学科教授)