茶の古典 (西村 圭子)


 鎌倉時代に中国に渡った栄西禅師は,教義と共に茶礼を学んで帰朝した。その著「喫茶養生記」

は医書であり茶書の原典でもあった。室町中期には,奈良の村田珠光は,一休宗純に参禅,能阿弥

の書院台子の茶と庶民の茶湯を集成し,四畳半の茶室に茶禅一味の境地を表現した。「珠光古市播

磨法師宛一紙」には数寄の心は和漢の融合、衆人和合と簡素枯淡の美と述べている。天文年問には

茶の湯の興隆がみられ,堺の豪商武野紹鴎は,珠光の高弟、十四屋宗悟に茶の湯を学び,「行」の

四畳半の佗び茶の作法を案出し,「紹鴎佗びの文」には正直に慎み深くおごらぬさまを説いた。こ

の頃「松屋会記」「今井宗久茶湯日記抜書」「天王寺屋会記」などの茶会記が残されている。千利休

は,北向道陳や紹鴎に師事し,豊臣秀古の茶頭として権勢を得ながらも,草庵茶室の佗び茶を深め,

諸道具の調和と主客の心の働きによって,幽玄の美しさを工夫した。「山上宗二記」は宗二が,珠

光・紹鴎・利休の道統の正統と,師の秘伝を記して佗び茶の真髄を示したものである。

 利休の死後,古田織部は大名茶の風格を保ちつつ,動きのなかに美意識を体現し,「織部百箇條」

を著している。織部没後,小堀遠州は普請奉行として,「椅麗さび」といわれる繊細で気品ある作

事を行い「遠州夜会の習い事」には,数寄の道は心持のきれいな様にと客に尽くす心を述べる。片

桐石州は,千道安の門弟桑山宗仙に師事,金森宗和,松花堂昭乗ら茶人との交流によって,格調あ

る石州好みを案出した。のちに4代将軍家綱の茶道師範として茶法の規矩を献じ、門弟が「石州三

百箇條」を編集した。その門下の松江藩主松平不昧は,「古今名物類聚」等の名物の分類を示し,

彦根藩主井伊直弼は,「茶湯一会集」を著し,一服の茶に生涯をかけ誠を尽くすと説いている。利

休死後千家再興が許されて,千少庵は不審庵と号し,子の宗旦は今日庵を創設した。宗旦門弟の山

田宗遍は「茶道便蒙鈔」等の基本書を著し,杉本普斉は利休正風体を重んじて,「普斎茶道伝書」

を遺し,藤村庸軒の女婿久須美疎安は「茶話指月集」を編集板行するなど,干家復興の基礎をつくっ

た。宗旦の三男江岑宗左は「江苓夏書」を著して,養子随流斎に利休以来の千家由緒を遺している。

利休の秘伝を高弟の南坊宗啓が書き留め,福岡藩の立花実山が書写したとする「南方録」は,実山

らの創作ともいわれるが,「小座敷の茶の湯は仏法をもって修行得道する事なり」など利休茶の湯

の本質を伝える書である。

 茶の古典は,利休に出て利休に還えることを説いたものといえよう。(図書館長・史学科教授)