図書館断章

西村圭子

 日本女子大学図書館では、このほど「図書館だより」100号の発行を迎えた。まことに慶ぱしい

限りである。

 図書館は、明治34年(190l)の本学創立以来、大学とともにその歴史を刻んできた。成瀬仁蔵

先生は、開校二か月前から図書を収集され、さらに二年の間に各方面から、図書2,737冊、その他

多数の新聞雑誌等の寄贈を受けられた。先生の当初からの最大懸案のひとつは、「本学学生が自由に

研究活用する事の出来る図書館」の建設であり、「これを婦人図書館として一般に公開」するという

構想であった。本学図書館は,明治39年(1906)4月、教育学部校舎、講堂(現、成瀬記念講堂)、

附属小学校、附属幼稚園とともに落成された。森村豊明会からの寄附によって、168坪余(約555m2)

総煉瓦造りの図書館として建設され、森村豊明会の名に因んで、豊明図書館と命名された。因みに、

評議員森村市左衛門が、令弟豊、令息明六、両氏の早世を悼み、その名の一字を合わせて森村豊明会と

名付けたという。(「日本女子大学校四拾年史」)落成式は、同年4月11日に行われ、豊明図書館は、

「家庭週報」(桜楓会の機関誌)第57号によれぱ、「本校表門右手、目白の通りに面して建てられ、

追て大講堂新築せらるるまで、講堂に兼用せらるべく、目下は三方に繞らしたる階上に書架、及び閲覧

室を設けたり」と記述されている。

 本学草創期の苦難のなかで、図書館の建物は出来ていても、蔵書は充実の域に達しなかった。この

ため桜楓会は、母校の学生の協力を得て、明治40年(1907)4月、バザーを開き、図書購入費を

集めることとなった。「家庭週報」第80号には、バザーの趣旨を「本邦唯一の婦人図書館は、(中

略)内部の設備は未だ整はず、この大なる賜をして、僅に本校生徒の希望を充たすのみに止まるは、

甚だ遺憾とする所なり。もしそれ、これをして一般女子の為に公開するを得ぱ、更らに多大の効果

を納めて、社会の進歩に資する事は云う迄もなき所なるべし。然らぱ如何にしてか公開の機運に至る

べきぞ、即ち内部の設備完全して、図書館としての面目を備ふるに及びて始めて之れを得べし。

われ等はこの設備に要する資金を何処にか求むべき(中略)時は既に迫れるなり」とし、来春四月

上句を目途に開催することを企画した。それには、研究発表や「意匠、技巧を以て売品を製作」、

文芸会を組織して「当日は金壱円の入場料を徴収し、売品の純利益、並びに有志者の寄附金を併せて、

図書購人費として、之れを豊明図害館に献ぜんとす」と結んでいる。この文芸会は、明治39年に4月、

7月、l 1月の3回試演が行われ、特に最終回には、内親王・皇族妃が臨席されている。

 ここに明治40年2月l 7日付、成瀬先生ほか評議員九名の連名で皇后宮大夫香川敬三宛に皇后の

行啓を願った書状がある。(「香川敬三関係文書」皇學館大学史料編纂所報第88号上野秀治論文)

香川は、幕末京都で岩倉具視に仕え、明治になり皇后宮大夫、皇太后大夫を務めた人物である。

「本校設立ノ際ニ当リ、皇后陛下ノ御思召ヲ以テ金弍千円御下賜ノ恩命ヲ蒙り、設立者一同感激措ク

所ヲ知ラズ」と謝辞を表し、さらに「甚ダ恐懼ノ次第ニハ御座候得共、此際、行啓ヲ仰ギ」たいと

述べている。この書状を成瀬先生は香川邸に持参されたとみられる。

 しかし大学設立発起人の一人である岩倉具定(具視の第三子)の同年2月5日付香川宛書状に、

「昨日女子大学校々長成瀬氏入来(小生面会セズ、病中故)今般同校附属之文庫建築費募集之為メ」

バザーや催しがあり、「皇后陛下ノ御覧ヲ願ヒ且文芸会モ併セテ御覧相願」たき旨、近く香川に内願

する由であるが、岩倉は皇室に迷惑をかけることになってはよろしくないと内々に反対の意向を

伝えているのである。行啓には至らなかったが、バザーや文芸会には、北白川宮家から大妃、二女

王が列席された。桜楓会は、図書館整備のために五千円を寄贈している。このような経緯にみられる

ように、われわれは成瀬先生の教育思想の指針と婦人図書館完備へのこれ程までの強烈な思いを

原点とし、この伝統を現代に継承しなけれぱならないと願うのである。

(図書館長・史学科教授)