上代たの文集編集委貝会編『上代たの文集』の成立について
新井明
上代たの先生が世を去ったのは,1982年(昭和57)の春,花散る仏生会の日であった。翌早春のある日,
徳末愛子氏が古い風呂敷にくるめた古雑誌十数冊を私に託した。上代先生の文章が載っている雑誌なのだという。
いちおう読んでみてください,ということであった。時間をとって目を通し,全体を1)高等教育関係,
2)「婦人と平和」の問題,3)人物論,4)文学論の四つの柱に分けて,見るべき論説を選び出し,
徳末教授に報告した。これで私の仕事は終わった,と思っていた。当時この学園の新参者であった私は,
この上代という人物を識らなかった。
ところが,その後,その四本柱の線で文集を作ろうという意欲が英文学科内で膨湃として湧き立ち,編集委員会を
構成した。図書館側では,すでに上代関係書目の作成を進めていた。裏方たる私はそのリストの中から前記四本柱の
線で上代の代表的(と思われる)文章を英語の全教員に,1983年夏の宿題として,選定することを求めた。その秋は,
こうして選ばれた文章を,私はさらに厳選した。経費の関係で,全体を(四百字づめで)千枚以内に収めなければ
ならなかった。
「はじめに」と「あとがき」は徳末さんと師岡愛子氏に書いていただき,「上代たの文集」という表紙の筆文字は
奥田夏子氏の揮毫に任せた。カヴァー絵は富田秀さんの作品を頂戴した。「略年譜」にかんしては,北野美枝子,
石川ムメ両氏のお知恵を借りた。装訂の段階で,赤紫色のクロスを選ぶにあたっては,それが上代好みだという
北野さんのことぱを信じた。全般的には私は福田陸太郎氏のご意見に耳傾けた。文集は1984年7月3日に上版された。
著者没後二年目の誕生日である。
基礎資料としての文章を編んでみると,教育・平和・文学の各分野において著者は成瀬仁蔵に負うところの多い
ことが分かる。しかし,上代の全生涯をとおしてみると,成瀬のほかに,新渡戸稲造の影響が決定的であったことは
明らかである。(平和問題にかぎって言えば,ジェーン・アダムズなどとの関係も指摘されていい。)上代は学生
時代に暁星寮の寮監E.G.フィリップスの感化で,1909年(明治42)のクリスマス・イーヴに矢来町の聖バルナバ
教会(聖公会)で受洗している。そのことが分かったのは,その受洗を記念してミス・フィリップスが上代に贈った
聖書が残っていることを,図書館の山口武義さんが教えてくれたからである。その上代が約40年後の1950年(昭和
25)に基督友会東京支部月会に人会したのである。これは聖公会側からすれば背信行為である。上代には苦しみが
あったはずである。しかし,この思想的転換は彼女の生涯の半分をかけての決断であり,そこには新渡戸の重い影響を
みないわけにはいかない。
その40年間,上代は教育と文学の両分野で新境地を開拓した。(教育者としての面には,いまは触れない。)
リーハントその他の英米の文人の足跡を探りながら,文芸は人間の「心霊を覚醒」し,「万人が生を享受しうる社会を
実現すること」を目的とする,と述べつづけた。これは改革的信仰に立つ文芸論であり,成瀬に端を発し,新渡戸に
合流する論説であった。
かの女には多くの未公開資料(書簡を含めて)があり,その大半は図書館友の会と成瀬記念館の協力で整理されている。
『上代たの文集』とその他の文献を使用してこの人物を研究するべき秋(とき)が,いま来ている。このことを折あるごとに
勧めてきた。(図書館友の会『会報』No.46;『図書館だより』No.70;Veritas Letters,No.7;また
英文科縦の会一一『桜楓新報』No.397所収一一など。)いまはかの女は歴史的人物であり,その客観性が主張されて
いい時期がきている。
『上代たの文集』の成立をめぐって,私を脇から支えてくれたのは,山口武義さんであった。その氏がその発行の直後,
不治の病をえて,1985年(昭和60)の早春に逝った。泉山館前の早咲きの花の薫る,雨の春分の日であった。私は
一句をえて,氏の遺体に添えた。「沈丁の香よ雨に泣けひと逝けり」
(英文学科教授)