上代先生追想 石川ムメ氏にきく

--“定礎”の字によせて--

水嶋寿恵

 1964年図書館開館から4ケ月程を経て創刊された『図書館だより』も,今回100号を迎えること

となった。図書館建設,図書館友の会設立,上代タノ平和文庫寄贈など,図書館の発展のために熱意

をもって取組まれた第6代学長上代先生。30余年を過ぎた今も,先生が私たちに残してくださった

ものはあまりに大きい。そのお言葉を振り返る時,何にも増した前に進む力を与えられる。50号の

特集では,館員が先生に直接インタビューをした記事を掲載している。1982年4月8日,舞い散る

花に送られて逝去される少し前のことである。 この100号に臨んで,上代先生とご親交のあった

図書館友の会の北野美枝子氏にご相談申し上げたところ,上代先生の年譜などを作成され,学園史や

『家庭週報』の編集にも携わってこられた石川ムメ氏をご紹介くださった。8月の昼下がり,松林

の向こうから潮騒響く茅ヶ崎のご自宅へ石川氏をお訪ねし,上代先生に関するお話を伺った。 

 図書館正面入口の右にある礎石の“定礎”の字は上代先生の筆による。真剣に何度も何度も書き

直して字を決められたという。定礎式は開館の前年に行われ,定礎に寄せる歌も演奏されて会に華

を添えた。上代先生は女子大卒業後,アメリカやイギリスで充実した研究生活を送られ,大学にお

ける自発的研究と図書館の必要性を実感された。図書館開館から17年を経た50号のインタビューの

際も「私に言わせれぱ,図書館があってそれから大学があるくらいのものです。それ程授業よりは

図書館における自発的な研究があってはじめて大学らしい大学ができるわけです。」と語っておら

れる。当時ほとんどの図書館は閉架式であったが,先生が御心に決めていらしたのは,学生が自分

の発想で自由に書架を巡り,蔵書とじかに接することのできる開架式の図書館であった。実り多き

近代的な図書館を創設すべくアメリカへ視察にも赴かれた先生のもとに,国内外から得難い御協力,

御助言が寄せられた。先生と共に本学で学ぱれ,先生の無二の親友でいらした野村ハナ氏(野村胡堂

未亡人)からは,建設予定費の三分の一に当たる大変な額の寄付をいただいたということである。

 「ユリノキのお隣にクスノキがあるでしょ。あれはね上代先生が入学した時の記念樹なの。」と

石川さん。今でも受継がれる開校記念日の記念植樹だが,クスノキは上代先生のいらした7回生,

ユリノキは10回生によるそうである。「ユリノキの方が大きくなったわね。」そうおっしゃって女子

大の樹を懐しそうに思い出されていた。図書館は,季節を追って次から次へと溢れるように花をつけ

る樹々に囲まれている。この樹々のうち「何回生寄贈」と記されていないもののほとんどは,図書館

が出来た時に英文学科の水田先生が寄贈されたものである。樹木がお好きだった水田先生のご主人が,

ご自宅のお庭から選んで運ぱれ,植樹にも立会ってくださったという。上代先生ご自身も樹がお好き

で,時にはご自宅のお庭の樹に登って枝をおろされることもあった。創設に携わられた国際文化

会館へお庭の樹を寄贈なさり,大学セミナーハウスへは故郷,島根の桜を贈られた。その樹々も,

女子人のクスノキやユリノキ,キャンパスに四季を告げる多くの樹々のように,年月を重ねながら

成長していることであろう。青木前学長は病床の上代先生のお見舞にいらっしゃる時,いつもキャン

パスの折々の花をお持ちになったと弔辞の中で語っていらした。上代先生は可憐なその花々の姿に

女子大の庭を慕ばれ,とても喜んでいらしたそうである。

 成瀬仁蔵先生,新渡戸稲造先生に師事し,女子高等教育の発展のため,国際平和推進のため,また

本学に学ぶ私たちのために,終生努めてくださった上代先生は,生誕の地,島根に眠っておられる。

墓標にはご自身の筆で「故郷を愛す,国を愛す,世界を愛す」と刻まれている。

 今,建設から30余年を経て,図書館は書架スペースの狭隘に,やむなく資料の一部を倉庫へ委託

せざるを得ない。全開架を旨とし,誇りとしてきた館員は皆,胸を痛めている。

 VERITAS VIA VITAEの下の扉を押し開け,“定礎”の字を拝しながら,新図書館の建つ日の

ことを遠く夢見る。

(館員・閲覧係)