児童学について思う
高橋種昭
児童学の歴史は古い。我が国においても明治期に既に児童学会は発足し,教育学や医学などの研究者が参加し
活動を始めている。そうした古い歴史を持つ児童学も不思議な学問で,そのものが如何なる学問であるかを皆の
納得のゆく形で説明しろとなるとなかなかできないのが児童学である。確かに児童というものの存在を明らかに
することは決して一学問だけの力では不可能であり,自然科学や人文科学など児童に関わる多くの学問の力を
かりる必要があるのは当然である。つまり学際的に児童を捉え,多面的にそのものを見ることによってはじめて
その事は可能となるはずである。しかし,そのはずのものがそのとおりにゆかないのが世の常である。児童学も
その例外ではなかったのである。この事はわが国の児童行政についても言え,以前から現在のように文部,厚生,
法務,労働などのタテ割り行政の形ではなく,児童省という形に統合したほうがはるかに効率的,且つ効果的に
その行政が行なわれるといわれてきたが何年たっても実現していない。児童学の場合はこうした役所の縄張りとは
違うが,学問間の壁は非常に厚いし,その研究の規模や研究方法を異にするため,児童という一つのものを対象
とした場合にもなかなかその統合は難しいわけである。このように統合ということは,云うことは容易であるが
行なうことはきわめて難しいことなのである。しかし,児童の未来について考える時にも,そのことは前述した
ごとく一つの学問の枠の中だけでできるものでないことは誰しもが認めることであり,児童学の如き学際的な学
問によってのみ可能となるものである。このように児童学は未来に向けて限りない夢と希望を託せる学問なので
あり,未来をつくる児童というものの存在をより深く知り,彼等にふさわしい環境作りに意欲を燃やす学徒に対
する期待は極めて大である。そしてそれは今回学園を去る私の夢でもあるわけである。
(児童学科教授)