異文化のなかの女性一一シーポルトの娘いね一一 西村圭子


 1829年12月艮崎オランダ商館の外科医シーボルトは,国禁を犯した咎により国外迫放となった。

このとき娘いねは2歳,いねの母滝(遊女其扇)は22歳であった。

 翌年夏オランダからの母娘宛シーボルトの手紙は,片仮名毛筆の愛情溢れるものであった。

 1831年10月,滝は近況を記した返事に「おいねに更紗二〜三反,また他に医書を又の便りに

送り下され候」と伝え,翌年11月贈物の礼状に「おいねは,お送り下され候語学書で毎日勉学

いたしており,明年は正しき言語にてお返事差し上げ得ることと存じ候」と記している。

 いねは,父から贈られたオランダの図書と皿や時計・人形などに囲まれた生活環境のなかで育っていた。 

 滝の再婚先は船問屋で,経済的には恵まれ,また義父はいねにとっても心やさしい人であったが,

いねは異国の父への思慕と幼時からの読書の影響,自分のおかれた立場の思いから,13歳で医学を

学ぶため家を出る決意をした。 

 滝が最も信頼したシーボルトの高弟二宮敬作は,四国宇和島に近い自宅にいねを呼び,学問研究の

目的は何かを教示し,産科の習得を目標にオランダ語と外科の基礎を教えた。 

 その後敬作は,シーボルトの有能な弟子であった岡山の石井宗謙のもとで勉学することを勧め,

1845年から6年の間,いねは多くの門人とともに宗謙から産科の理論と臨床を学んだ。 その間,

不本意な宗謙の仕打ちにより妊娠,ひとりで娘を出産し,唯(のちの山脇泰輔夫人高子)と名付けた。

  185l年傷心のいねと娘は滝のもとに帰り暖かく迎えられたが,この年産院を開業し乍ら,外科を

阿部魯庵に師事した。娘を抱えての執念の研究であった。

 1854年11月敬作はいねと再会したが,紹介した宗謙との事情を知って責任を痛感し,再びいねを宇和島に

伴い,この地に寄寓していた村田蔵六に語学を学ぱせた。

 その間滝は孫娘の唯を預かり養育している。いねは敬作の指導を受けて患者の代診もした。
 
 1859年8月,シーボルトは再び来日し,父娘は劇的な対面を果たす。1862年の離日までの3年間,

父娘の関係は厳しい師弟として,ときには激しい感情の行き違いや口論はあっても,老いた名医は愛娘に

従順な微笑ましい間柄であった。

 いねは父に頼んで,1859年からオランダ商館外科医ポンペらに師事し,10年間最新の西洋医学を修めた。

 いねは艮い研鑽ののち,1870年東京築地で開業し,その名声から1873年7月には,宮内省御用掛として,

権典侍葉室光子の若宮誕生の侍医となった。いねは福沢諭古の知遇も得て名医の令名は高まったが,

その声望に驕らず市井の医師として1901年その生涯を全うした。

 あくなき医学への情熱と社会への奉仕を白己の使命として貰いた女性であった。(図書館長・史学科教授)