対馬宗家史料について (西村圭子)


対馬島は日本列島の西北端の洋上に位置し,韓国釜山港から僅か53kmの至近地にある。島主宗氏

は, 13世紀には朝鮮との中継貿易の役割をもち,17世紀以来鎖国下においても,朝鮮通信使の来聘

など徳川幕府公認の国家間交渉の使命を担い,両国の親善と日本文化の向上に貢献した。

 天正8年(1580)17代 宗義調は,博多の聖福寺住職,景轍玄蘇を対馬に招き朝鮮との外交交渉に

当たらせた。その後,玄蘇は宗氏 と共に豊臣,徳川政権の成立過程で,朝鮮との戦乱に参加し,そ

の終結の和平交渉を重ね,慶長14年(1609) には国交の基本法となる己酉約条を結んでいる。同年

対馬の府中(厳原町)扇原に禅寺「以酊庵」を開いた。 玄蘇出生の天文6年「丁酉」の年に因んだ

命名という。寛永12年(1635)後継者の規伯玄方は,21代宗義成 の重臣柳川調興の国書改竄事件に

関わって,将軍家光により配流された。義成の要請により幕府は,対馬藩外 交の監察として京都五

山の碩学僧から「対州修文職」に任じ以酊庵に輪番させた。すでに家康は学問奨励のため五山のう

ち南禅寺を除く天龍・相国・建仁・東福の諸寺に碩学料(奨学金)を与え,碩学僧を育成していた。

 彼らは外交文書の起草と監察,通信使の接待や詩文の交換等に携わる当代一級の文化人でもあった。

以酊庵輪 番の記録「本邦朝鮮往復書(日韓書契)」は以酊庵・対馬藩庁・京都五山のそれぞれに保

菅される。延宝6年 (1678)釜山浦に新築の「草梁倭館」には館守らが駐在し,その補佐として府

中の臨済宗寺院の僧侶が倭館内 の東向寺に派遣され,文書の授受・審査・勘案を行い,その記録

「両国往復書謄」は倭館に常置された。 

 当初,厳原町の菩提寺万松院には宗家史料の中心となる藩政・外交・貿易・財政の膨大な文書が保存

され, 昭和52年(1977)から長崎県立対馬歴史民俗資料館に移された。すでに大正15年(1926)

朝鮮総督府朝鮮史 編修会は,通信使関係,本邦朝鮮往復書,朝鮮方毎日記等を購入し,現在韓国文教

部国史編纂委員会に引き継がれている。倭館館守日記・両国往復書謄や銀座・銅座調達記録,貿易取引

記録等の外交史料は明治6年(1873) 外務省に,その後帝国図書館(のち国立国会図書館と改称)

に移された。江戸藩邸の毎日記,幕府との交渉記録 は束京の菩捉寺養玉院から明治45年(1912年)

南葵文庫に売却され,のちに束京大学附属図書館へ,昭和35年 (1960)束京大学史料編纂所に収め

られた。明治45年慶応義塾大学図書館にも朝鮮通信使関係の記録等が購入された。なお五山塔頭にも

以酊庵輸番僧の関係史料が保存される。現在とくに,東アジア対外関係史研究に不可欠な対馬宗家史料

の適切な保存,利用提供等のあり方が大きな課題となっている。(図書館長・史学科教授)