ハイネ生誕200年記念展示会について(鈴木和子)


 今年はハイネが1797年12月13日に生まれてから,200年になる。彼の生年については,1799年説

もあるが, 紙幅のこともあるので,ここでは論じない。ハイネの生誕の地デュッセルドルフでは,

5月25日から30日まで 「ハイネ国際学会」が開かれる。学会最終日の30日にはデュッセルドルフか

らリューデスハイムまでライン下りが組まれ,ローレライを見物することになっている。ハイネと言え

ば「ローレライ」,「ローレライ」と言えば ハイネ,ハイネの名を知らない者でも,ジルヒャーの

「ローレライ」の曲を聞いたことのない人は少ないであろう。 その作詞者がハイネなのである。かく

申す私も,旧制女学校時代に「ローレライ」を歌って,なんとなくドイツに憧れたものだった。そして

ハイネの名を知ったのだった。

 ハイネはユダヤ人だった。それでハイネはユダヤ人解放を促したナポレオンに傾倒し,その一方で,

世間の偏見・差別と身を以て闘わねぱならなかった。しかし民衆の側に立った,その鋭い筆鋒は,プロ

シャ官憲の逆鱗に触れ,1831年彼は白由な活動の場を求めて,パリに移住せざる を得なかった。彼

の受難は死後も続く。あのナチスの時代,彼の著作は焚書の難にあい,ナチスによって禁止された。

だが,彼の「ローレライ」は「よみ人知らず」として大っぴらに歌われていた。あのナチスでさえ,

ハイネの名詩を弾圧できなかったのである。

 私がハイネ文献の収集を始めたのは,本学の史学科を卒業し,早稲田大学大学院西洋史専攻に進み,

更に1年して ハイネ研究の舟木重信先生を慕って独文専攻に転じてからであるから,かれこれ40有余

年経つ。この間に,夫との出会いがあった。この夫が早稲田の学部学生の時代に,森銑三先生に出会い,


その影響で本道楽となってしまった。 彼はドイツのオークション業者四社にコネをつけ,かつて入札

に参加した。そこでハイネの初版本の殆んどと,ハイネ自筆著名の年金受領証一通,書簡一通を入手し

た。こうして夫は稀観本などを入手するのだが,「ローレライ」初出の雑誌「ゲゼルシャフター」

(1834年49号)と,ハイネを敬愛したオーストリーの皇妃エリーザベット愛蔵の写真アルバムを落

札し損なったのは,今でも残念がっている。カタログの希望価格に3倍の値を付けれぱ落ちないことは

なかったのだが,この時ぱかりは思いきって5倍の値を付けたのに落ちなかった。今回,9月29日(月)

から10月4日(土)まで,日本橋の丸善で展示するハイネ資料はドイツの初版本などと,日本のハイネ

文献である。 その中で何といっても森鴎外の「あまをとめ」が珍しいものである。これは明治22年に

「國民之友」夏期附録第5巻 第58号「於母影」の中に収められた一篇だが,活字となったものとしては,

これが知られる限りで日本最初のハイネ訳詩である。因みに,明治政府は小学唱歌集を編み,欧米の音楽

を導入しようとしたが,その候補にハイネの詩にジルヒャーが作曲した「ローレライ」があり,既に明治

16年頃,その草稿は出来上がっていたのだが,小学校の音楽教科書に採用されなかった。あまりに訳が

下手すぎて,その訳に節を付けて,とても歌えるものではなかったからである。

 尾上柴舟の『ハイネの詩』は,日本で最初のハイネ詩集である。これまで何冊か持っていたが,カヴァ

ー付きを入手して,初めてカヴァーが付いていたことを知った。橋本青雨の『詩人ハイネ』には,三浦白

水または白水郎の「ローレライ」の訳が載っている。この訳はジルヒャーの曲に合わせて,ハィネの詩訳

を試みた最初のものであるが,白水または白水郎が何者であるか,未だに分からないでいる。「なじかは

知らねど……」の訳者,近藤朔風のいわぱ先駆者だけに,それが残念でならない。

 今回,展示するのは私どものコレクションの一部だが,この展示会が実現できたのも,本学図書館のご

協力のおかげである。心から感謝するとともに,皆様のご来駕をお待ち申し上げている。(文化学科教授)

  *「ハイネ展示会」9月29日(月)〜10月4日(土)於:丸善(日本橋)後援:日本女子大学図書館