祖母と母と私の女三代(広田寿子)


 最近私は『女三代の百年』という,まことに大袈裟な書名の本を出版しました。思えぱ全く偶然

の産物ですが, 一応そこには,明治維新直前(1867年)生まれの祖母と,前世紀末(1898年)

生まれの母と,さらに第一次世界 大戦直後(1921年)に生まれた私の三代が顔を揃えています。

しかし祖母のことは母自身が今から四十二年も昔,「母のおもかげ」として書き遺したものが唯一

の拠り所。母のことは経済の「高度成長」が日本人一般の生活に 影響を及ぼす以前,癌で亡くなる

(1958年)までの療養中の五年間に書き溜めた遺稿と,その母に育てられ,見守られて暮した,娘

である私の見聞記に過ぎません。しかも娘である私のことになると,この本で取り上げているのは母

の在世中に限られていますから,年齢で言えぱ37歳までです。現在既に76歳に達した私は,母死去

当時その後の生活が,個人的にも社会的にも今日のようになるとは,いささか極端な言い方をすれぱ,

夢想も出来ませんでした。というのは,その後日本は「奇跡」と言われた経済の発展を通じて大き

な変貌を遂げ,わずか四十年足ら ずの間に良くも悪くも様変りしてしまったからです。

 そういう女の三代,つまり長い歴史のなかでは芥子粒にも値しない中途半端な女三代の物語が,

一冊の本になったいきさつは,母が四百字詰原稿用紙に換算して252枚に及ぶ 遺稿を,主に藁半紙

に鉛筆で書き遺していたことにあります。癌が転移を統けるなかで,文字どおり死に直面しながら

書いていた母の遺稿を,部分的には目を通したことがあっただけに,何時か整理しておかなけれぱ

という思いが,残された二人の子供である私たち姉弟には始終つき纏っていました。

 ところで大学を退職後図らずも病気になって,社会的活動を全くストップした私が,病気の快復

につれそろそろ 仕事を再開しようと考え始めた矢先,妻を胃癌で亡くした弟がその遺品を整理しな

がら,母の遺稿のすべてを見つ けだして私のところに届けてくれたのです。一昨年の暑い夏の盛り

のことでした。迷わずワープロ起こしに取り掛り,改めてそのすべてにじっくり目を通した時,私

は母の人格や能力をムザムザ食い潰して来た後悔に,打ちひしがれる思いを味わいました。 

 『女三代の百年』では,この母の遺稿から女三代に関わりが深いものを選んで「母の徒然草」と

名付けてI部としています。母が書き遺した一代目の祖母の「おもかげ」,二代目にあたる母自身

の「幼い日の思い出」,これらはいずれも今から九十年も昔の,日露戦争時代の静岡のお茶処での

話です。それから十数年後,三代目である娘の 私が大連市(日露戦争後敗戦まで日本租借地)で誕

生した直後,サラリーマン家族の走りでもある若い両親のてんやわんやの子育てを回想して,母が

書いた「乳児期」。最後は戦争と敗戦がもたらした予期せぬ困難に,常識にこだわらず正面切って

挑戦した母自身の体験を根底にすえた創作「秋子」です。 

 これらの母の遺稿の間隙を埋めるために,「娘が辿る母娘の戦前・戦後」をII部として私が執筆

しましたが,ここではどちらかと言えば,三代目にあたる娘の半世の記録が突出しています。ただ

し日本の庶民の暮しを六十年以上も昔に先取りした,大連での私たちの生活の光りと影,帰国後キ

ナ臭い戦争への道をそれとは知らず辿っていた 女子大の頃,開戦から敗戦までの娘時代の諸体験,

敗戦が身に沁みた壕舎暮しと肌身で感じた新しい時代,生き抜くための母娘の模索,多くの人に助

けられた療養生活,矛盾に満ちていた講和条約発効前後の労働省勤務などについては,その時代背

景も意識してまとめてありますので,現代史研究のタタキ台にしていただけれぱ望外の幸せです。

(元家政経済学科教授・39回国文学部卒) 

*『女三代の百年」岩波書店 1996年12月発行 図書館所蔵(目白・西生田):請求記号289.1-Hir 
*広田先生プロフィ-ル 1921年生まれ。1951年束京大学経済学部を卒業後労働省に勤務し,1966年より日本女
 子大学家政学部家政経済学科で教育,研究に従事。生活経済論,女子労働論,経済学演習などを担当。1989年
 3月定年退職。著書『現代女子労働の研究』『続・現代女子労働の研究』(いずれも労働教育センター刊)など。